a flow er

あっちとこっち、そっちとこっち。

日課

仕事から帰ってベランダで一息つくのが、ここ数年で日課になった。見渡せる景色が特別綺麗だとかいうわけでもないけど、夜の静かな騒がしさを眺めるのは、なんとなく心地が良い。朝とは打って変わって閑散とする大通りをすうーっとスマートに走り去る車の音、ブワンブワンふかしながら暴れ去るバイクの音。それから、近所の呑み屋から出てきた直後の、ちょっとハイな人たちのガヤガヤとした声。駅の方へと歩いていく。意外に、というべきなのか、静かな空気にハイなあの声はよく馴染むなあと思う。音が、声が、徐々に遠のいていく感じ。「みんな一日を終えるのだなあ」としみじみ、わたしも一緒に一日を終える気分になれる。

 

仕事は演技だ。性格にそぐわない仕事に就いてしまったから余計、会社員をするための人格が別で必要だ。六月に異動して自分の担当を持ち、言いたくないことを言わなければいけない場面にたくさん遭遇するようになり、そう感じるようになった。仕事だからやるしかないし、言うしかないのだ。全部全部、もう全部台詞。台本のないお遊戯会。

言いたくないことを言えば、言われたくないことだって言われる。でも、言われたくないことを言われている自分は会社員の自分で、わたしが言われているわけじゃない。わたしは会社員のわたしだけじゃない。そう繕っていれば、心を控えていれば、耐えられる気がしている。逃げ道は必要だ。それでも、東京人の喋りがうんたらとか言われたときはなんかこう、じわじわと堪えた。東北育ちの母が関東育ちの父に、たまに「アクセントが違うよ」と笑われていたのが思い出された。母はその度に「そんなに変?」としょんぼりしていた。そのときのわたしは、「別に通じるし(いちいちつっかからなくても)よくない?」と思ったし、だからこそ「そんなにしょんぼりしなくてもよくない?」と思っていたけれど、今なら母にも共感できる。言語は、それが使われる環境のなかで育ってきた表れ、アイデンティティそのものだから。

今の仕事は、いろんな意味でタフでドライじゃないとやっていけない。一応職場では、わたしはタフな人間として括られているらしい。でも、それはただ装っているだけ、感情を殺してカバーしているだけだ。ウェットな気質はどうやっても乾かしきれないけど、心を控えて訓練するのみである。この訓練のお陰でどうにか仕事はやり過ごしているけれども、一方で、心が動きづらくなったというか、鈍感さが増した気がする。おかしなメンタルトレーニングのせいで、心に変な筋肉がついてしまった。感情メーターがゼロ以下の範囲でしか動かない。無関心の域が広くなってきた。SNSで絶景写真を見る度にタグをタップして、そういった場所にひとり出掛けることが楽しみのひとつだったけど、めっきりしなくなってしまった。せいぜい、馴染みのカフェに出掛けて行って、だらーっと時間を潰すくらいだ。様々な回復が、どんどんと追いつかなくなってきた。

 

そんななかでも最近楽しかったのは、好きな先輩が泊りで遊びにきてくれたこと。言わなければいけない、然るべき回答を出さなければいけない、話の順番はどうあるべきだとかいう、会話の義務感からの解放。お互い思いつくままに喋って、「あ、猫かわいいー」とか脈絡もないことを口にして、話すことがないなら沈黙して。もう、一緒にいるだけで充分よかった。

先輩を新幹線改札で見送って自宅に戻ったら、なんだかものすごく泣きそうになってしまった。自宅がやけにがらんとしている。いつもは誰もいないのが当たり前なのに、たった一日でも誰かがいただけで、その分、空間が拡張されてしまったようだった。窓から注ぐ夏の光が尚更に空っぽさを強調して、真昼の静けさが耳について、漠然とした不安感に襲われた。久々に正の方に針が触れたからか、感情メーターが誤作動だといわんばかりに警報を出したみたいだった。

 

遊びに来てくれた先輩は来年、退職して海外留学することを決意したらしい。いつも元気に振舞っていた会社の先輩は、辞めることだけを決断して、年末に退職する。タフでドライにみえる同期は悩んだ末に異動願を出し、現場職を離れることになった。リーダーシップを発揮していた同期は鬱で休職。担当先の人は、学生時代のご縁で技術職の道へ戻ることにしたという。そこのパートさんもまた、家を継ぐべく退職していく。facebookを開くと友人の姓がいつの間にか変わっていて、インスタのストーリーには友人の子どもの動画がアップされていて。「ああ、人生〜〜〜」という、自分でも解釈しきれない感想を心の中で叫びながら、ぐちゃぐちゃのまま、曇る眼鏡で自分の人生を展望した。

 

仕事から帰ってきてクーラーをつけ、部屋がひんやりするまでベランダで一服しながら、夜の静かな騒がしさを眺める。部屋はなんとなくむしむしするけど、ここ数日の夜風は気持ち良く感じられる。ベランダが快適な季節だ。たばことは無縁な生活だったのに、この数ヶ月で軽度喫煙者になってしまった。わたしがたばこを吸う姿は、会社の、それも今の職場の人たちしか知らないだろう。一口吸って、ふううっと煙を吐く。また一口吸って、吐く。呼吸が意識される。健康被害を謳われているのに、これがなんとなく、健康的な行為をしている気分になってしまう。呼吸は思考に大きく影響するのだと教えてくれた部活の講師を思い出す。中学生のときからお世話になり、進学した高校でも講師として勤められていた先生。中学時代の部活と高校受験とで燃え尽き、表面上は明るく振舞いつつも悶々としながら過ごした高校時代に言われたもの。「呼吸が浅いと思考も浅くなる」とか、「嘘の笑顔も大事。脳が幸せだと勘違いするから」とか、当時のわたしにとっては格言みたいに思えた。先生はどこか察していたんだろうと、今になって思う。激励の言葉として、いまでも記憶に残っている。「先生、わたし、今深く呼吸してます」と、「いやいや違う違う」と絶対に突っ込まれる台詞を思い浮かべながら夜を見渡す。頭がぼーっとしてきたところでたばこを灰皿に押しつけ、部屋へと戻る。

ああ、疲れた。纏わりつくたばこの匂いは一体、誰のものなんだ。